北九州市のカトリック小倉教会です。「わたしたちの教会 、あなたの教会」です。

教会について~ About

みんなのエクレシア カトリック小倉教会
教会の原語はヘブル語でカハル。ギリシャ語でエクレシア『神さまから呼び集められた人たち』の意味です。
小倉教会の保護の聖人は《被昇天の聖母》です。祝日は8月15日です。

カトリック小倉教会

主任司祭:ヨセフ牧山勝美神父
協働司祭:ペトロ李昇炫神父

沿 革

【小倉教会 歴代の主任司祭と主な出来事、信徒の歩み】

エミール・ラゲ師(ラゲ訳で有名な聖書翻訳者・仏和辞典編集者)
  明治20年頃から福岡で宣教していたラゲ師が時々島田師を伴い小倉へも足をのばして宣教の機をうかがっていた。ラゲ師は1879年(明治12年)に来日、1887年(明治20年)から約15年間、福岡全般の宣教に当たっていたがこの間小倉に移住した長崎出身の信者たちとも連絡をとっていたのである。
有安秀之進師(教会復活後発の邦人司祭)
  1890年(明治23年)赴任。借家して定住、宣教始める。ここに初めて一つの教会としての司祭在住と場を与えられたことから、現小倉教会の出発点となった。信者数約40名。小倉人口2万。
ヨセフ・ベレル師
  1893年(明治26年)赴任。借家を転々としながら司牧。
フィリップ・フェラン師
  1896年(明治29年)赴任。小倉のはずれ香春へと通じる出口馬借町南端(現在の香春口)の水田の一画を教会用地として購入(現在の教会所在地)。仏、米からの寄付を得て司祭館伝道師館を建てる。
フランソワ・ベルトラン師
  1899年(明治32年)赴任。北九州全般を受け持ち、後33年もの間、北九州地方宣教司牧。1900年木造の聖堂を建てる。小倉教会の聖堂はこれが最初である。日本家屋二階建であった。敷地内にもう一軒の平屋があり、志村伝道士一家が住んでいてそこが集会所になった。この頃から年平均十数名の受洗者あり。1907年(明治40年) 門司に聖堂を建てる。1912年(大正元年) 八幡に借家して司牧。1914年(大正3年) 新田原のトラピストの近くに聖堂を建てる。五島から最初の移住者を迎える。
当時、陸軍第十二師団(小倉北方)の軍医監だった森林太郎(後の森鴎外)にフランス語を教授した。
アナトール・ヒューゼ師
  1932年(昭和7年)赴任。1933年無料診療所を置いた。1934年ベルトラン師の建てた教会が古くなったので大きな様式の聖堂を建てる。2年をかけ新小倉天主堂、司祭館、伝道館を建設。この神父は井戸を掘る際、地下の水脈をうまく見つけることで有名だった。
深堀仙右衛門師(後の第三代福岡教区長)
  1936年(昭和11年)赴任。青年会ができて熱心な信心生活が行われていた。彼らは毎朝、教会にやってきて祈りをしてから仕事へ出かけた。婦人たちは毎ミサ後祈りと黙想をした。信者は昭和初期の約10倍になっていた。四、五百名位。当時の帝国酸素会社の上役の一人が信者だったので、彼の導きでこの会社の若者たち(未洗者)が大勢教会に通ってきたりした。
梅木兵蔵師
  1937年(昭和12年)赴任。長崎教区司祭。門司教会にも一年間在任された。その消息を伝える人はいない。ただ門司の守山寛氏によれば、戦後の長崎にて原爆被災者の間を、御聖体をもって回っていたことを、もれ聞いたことがあるとか。自身も原爆症にて1960年(昭和35年)没。
平田惣五郎師
  1938年(昭和13年)赴任。小倉小教区の経済的独立のため、それまで一家庭何銭かだった維持費を一律にいっきょに一家族二円とした。湯川に墓地用の土地購入。戦争直前のきびしい情勢下で国の干渉強く、特高が教会に自由に出入りして圧迫した。世間からクロ(クロスのこと)とかヤソなどと云われ、いわれなき㚽視を受けた。ミサ中も警察のスパイが入りこみ、説教には細心の注意をはらわなければならなかった。しかし教会の近くの酒屋さんは好意的で、電話の取り次ぎをよくやってくれた。
棚町正刀師
  1941年(昭和16年)赴任。戦中戦後の最も辛苦をなめた頃の教会を支えた。空襲の下、信者の家をまわって御ミサを捧げた。終戦の何日か前に軍部の指示により教会建物が壊された。終戦後は進駐してきた米軍の保護によりバラックの仮聖堂が建つまで、旧玉屋デパート裏の借家を教会代わりの臨時聖堂として使用した。翌年もとの香春口にバラック材の仮聖堂を建設(11代ドルエ師まで12年間使用)。
ジャン・ムルグ師
  1948年(昭和23年)赴任。洋裁学校を古材で建てる。のちに信徒会館として使用された。日本における JOC 創始者。小倉教会を本部として発足。日本青年労働者大会を開催した。ベルギーのブリュッセルで行われたJOC 世界大会に師とともに猪原会長も出席。1952年(昭和27年)に東京に本部が移った。
フランシスコ・ドルエ師
  1950年(昭和25年)赴任。この頃は毎年求道者が増えつづけ年間百人を越えることもあったバラックの聖堂には二百人位しか入れず不自由した。生活保護家庭の人々を、市と連絡をとりながら世話した。他方、知名士(市長、銀行頭取、大学教授など)にも働きかけ親交を深める努力もした。まだ物資の豊かでない時代で、空腹のため御聖体のパンを盗んだ泥棒もいたほどである。しかし求道者が多かったのを見れば飢えていたのは心の方だったのだろう。
徳山 登師(フランス名:トクベフ)
  1952年(昭和27年)赴任。子供会ができた。勇士の会(男子)、白百合の会(女子)。バッチもできてやがて北九州全体の集まりにもなった。5年間の資金集めの努力の後、崩れそうになっていた教会(現在の聖堂と旧司祭館)を1958年(昭和33年)に再建。受験地獄の世相は未だ到来せず、親は学校より教会を優位におく人が多かった。1953年(昭和28年)の水害の時には近所の人々と助け合った。旧バラック材で宮の尾集会所を建てる。
ヤコブ・バイヨ師
  1961年(昭和36年)赴任。信者数約1600名。宮ノ尾幼稚園で周辺地区の子供たちを集めて公教要理の勉強会を開いていた。(未洗者の子供たち)。大学生会活躍。
ヘンリー・キニュー師
  バイヨ師不在の間、主任司祭代理で多忙だった。
青木 保師
  1964年(昭和39年)赴任。中年以上の年配の人々の司牧に重点を置き、町内活動には積極的に参加。1969年(昭和44年)頃より北九州地区の信者のため納骨堂建設の企画をはじめ、担当者の人々の長い苦労のすえ1976年(昭和51年)に完工する。
クロード・バスチ師
  1975年(昭和50年)赴任。宣教に主力を注ぐ。求道者ならびに受洗者数が非常に増える。昭和町と宮ノ尾幼稚園の建てかえ。長行地方の土地を購入して建物もつくったが、あまり使用されていなかった。司祭館、信徒会館の建てかえを計画着手。
岩永義人師
  1990年(平成2年)赴任。1991年司祭館・信徒会館が新築落成。
平田 寛師
  1996年(平成8年)赴任。パソコンに明るい司祭で、ホームページ、信徒名簿、教会会計事務などの電算化を推進した。
平田 敬師
  2001年(平成13年)赴任。ミサ中、騒音に悩まされた旧空調機を撤去、新しいエアコン設備が完成する。10年後新聖堂建設目標をかかげ、建設献金が開始された。
山元 眞師
  2010年(平成22年)赴任。よりよい典礼を目指し、聞きやすく、解りやすい「みことば」発信のため、聖堂内の音響装置を抜本的に改修。
牧山勝美師
  2014年(平成26年)赴任。新聖堂建設検討委員会を立ち上げる。同委員会は新聖堂建設を教会運営委員会に提案。

教会へのアクセス~ Access


教会入口:モノレール沿いを小倉駅方面向かい、香春口交差点の歩道橋直前左に入口があります。小倉駅から三萩野方面に来られる場合は、香春口交差点を過ぎた後、最初の信号からUターンしてください。
※カーナビを利用すると教会聖堂の裏に案内されますのでご注意ください

  
  大きな地図で見る