1549年8月15日(室町幕府後期) |
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フランシスコ・ザビエル師鹿児島到着。多数の宣教師が渡来。織田信長、自分の政策上宣教師たちを保護、優遇。約十ヶ月間滞在、150名に洗礼。その後、彼は1551年11月にインドへ向けて日本を去るまで、各地を動き回って宣教を続けた。
鹿児島ー平戸ー博多ー山口ー堺ー京都ー平戸ー山口ー府内(大分)
...小倉を通ったこともあったでしょう。日本の地に初めてカトリックの種子が蒔かれた。
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1577年(織田信長の時代) |
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フィゲレイド師、数名の供とともに博多から山口へ移動した際、小倉で小滞在している。 |
1587年4月24日(豊臣秀吉の時代) |
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豊臣秀吉キリスト教禁止令(ばてれん追放令)出される。宣教師たちを追放、長崎を直轄地に。 |
1588年 |
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日本に司教区設立が発令され、初めて府内(大分)に司教区がおかれる。初代司教デ・モラエス師(イエズス会)。この方は来日されなかった。 |
1590年(秀吉の時代) |
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バリニャーノ師は秀吉に会うため長崎より都に向かったが、途中小倉城に寄った。22名の同行の人々の中に遣欧州少年使節の4名も含まれていた。この時、3名の信者が彼らを迎えた。 |
1591年2月17日 |
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二代府内司教マルティンス師来日。 |
1596年 |
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フランシスコ会宣教師や日本人など26聖人が長崎立山で殉教 |
1599年 |
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豊前の黒田甲斐守の面前で、バリニャーノ師と仏僧の間で信仰の教理について論争が展開された。 |
1604年頃(徳川家康の時代) |
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細川忠興(妻が明智光秀の娘ガラシャ玉子夫人、熱心なキリシタン)が小倉藩主として入部、キリシタンを保護。小倉では、司祭1名、修士2名がおり、人口6000名から7000名のうち信者は2000名、この年約400名の受洗があった。イエズス会の駐在所が一つあって3名の修士が居た。細川氏はこの頃はまだキリシタンに好意的だった。布施もした。ドン・ルイス・セルケイラ師が小倉を通過した時も厚遇されている。この年1606年には受洗者が1060名を越えたので必要に迫られて、もう一つの聖堂を建てたほどであった。当時の小倉にいた司祭はカミュ・コンスタンツ師とグレゴリオ・セスペデス師(小倉で没)の二人だった。マンショ伊東が助任。 |
1610年(家康の時代) |
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小倉には10名のイエズス会員がいた。2000名の受洗があった。 |
1611年 |
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厚遇し戦況に便宜を与えていた小倉在住のセスペデス師の死後、藩主細川は幕府の禁教令に逆らえず、キリシタン追放に転向、活況であったキリシタンの上に暗雲が立ち込めてくる。聖堂は壊され司祭の追放が始まる。 |
1614年 |
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キリシタン禁教令。殉教時代始まる。小倉にいた多くのキリシタンは教会も墓地も壊されて捕えられ、その多くは転んだ。 |
1618年 |
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小倉で37名が斬首、逆さ吊りで殉教。四代府内司教は来日できず、以後府内司教発令はなされなかった。 |
1619年 |
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禄一万石小倉藩重臣ディエゴ加賀山隼人が藩主の棄教命令に背き、日明の丘で刑死、殉教。 |
1632年 |
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細川に代わって小笠原忠真が小倉藩主に。厳重な宗門改めにより、小倉のキリシタンは壊滅した。 |