1. 列福(福者の列に加えること)されたディエゴ加賀山隼人 |
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2008年11月24日、17世紀前半のキリシタン弾圧により殉教した日本人信徒188名が、バチカンによって「福者」として認められ、顕彰の栄誉を受けました。その中の一人が、小倉藩家臣でキリシタン武将であった小倉教会のディエゴ加賀山隼人です。
福者とは神への深い信仰ゆえに、その内的領域を何よりも大切にして、その限られた生涯を全うした信徒でその聖性をバチカンが認めて贈る敬称です。その中には子供や女性をはじめ様々な人々が含まれています。
彼らは長らく歴史の闇に埋もれていましたが、列福によってようやく光が当てられることになりました。その彼らの聖性は、混迷の現代世界のただ中にあって、人間の尊厳のために、今なお求められている一つの生のあり処を示しています。
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2. ディエゴ加賀山隼人の生涯 |
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・出生と受洗 |
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1566年、高山右近の領地・高槻(現大阪府北部)で生まれました。10歳になったとき、イエズス会の神父ルイス・フロイスから洗礼を受け、洗礼名(ディエゴ)を授かりました。キリストの12使徒ヤコブのスペイン語読みです。
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・信仰の礎 |
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その後、安土(現滋賀県蒲生郡)にあったイエズス会のセミナリオ(神学校)で学び、信仰を深めました。この時期にイエズス会の「霊操」(spiritual exercise)に触れ、霊性の礎が築かれたのではないかと推測されます。
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・士官職としての生 |
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やがて武士となり、高槻城主ユスト高山右近に仕え、その後丹後の宮津城主細川忠興に仕えました。そして1600年、忠興に従って九州に下り、豊前国(小倉・中津)の地を踏むことになりました。
豊前では主君忠興の信任を得て、豊前下毛郡(現大分県中津)の郡奉行になり、多くの領民を善導して厚い信望を得、間もなく藩の国家老に任ぜられました。
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・信徒使徒職としての生 |
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一方、豊前の司牧者セスペデス神父の指導を得て、教会の内と外の接点役として信徒使徒職に励み、多くの信徒の模範となり、まだ若い小倉教会の共同体づくりの支柱的存在となりました。
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・殉教者としての生 |
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1611年、忠興はキリシタン禁制の時勢に準じ、信頼の厚い隼人に対しても再三棄教を迫りました。しかし、信仰に不退転の隼人は、家老職を取り上げられ、数年間家族ともども軟禁生活を強いられても、保身や功名よりも神のみ心に従う日々を選びました。
1619年10月15日、そんな隼人に対し、忠興は死罪の宣告を下さいました。その日、隼人は殉教地となる干上がり(日明)に小舟で運ばれる間、自分を主に委ねるために静かに祈りと黙想に浸り、刑場の丘に着くとイエス・マリア御名を5回唱え斬首の刑に身を投じました。享年54歳でした。
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3. ディエゴ加賀山隼人殉教400年を迎えて |
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2019年10月14日に北九州信徒使徒職協議会主催で小倉教会にて殉教400年記念ミサを行いました。
また、同年同日に日出(大分)で殉教したバルタザル加賀山半左衛門と息子ディエゴも共に祝いました。
その準備として、私たち小倉教会の信徒が先ず、隼人のことをもっとよく知り、隼人の励んだ信徒使徒職とその源である霊性を学ぶことから始めることにしました。
この学び合いを通じて隼人が賜った福者の恵みに与り、その分かち合いから生まれる力が、これからの新しい教会共同体づくりの支柱となって、節目となる400年祭を心から迎えられるように願って始められました。
そのために、2015年には「ディエゴ加賀山隼人の足跡を学ぼう」と、キリシタン史の研究家・安東邦昭先生を講師に迎え、5月と8月の2回にわたり勉強会を行いました。
2016年3月には、小倉教会の主任神父・牧山勝美師が「キリシタンの霊性と殉教」というテーマで、2回にわたって黙想指導を行いました。
7月からは毎月1回、信徒有志による様々なテーマの卓話と、その分かち合いを行い、2018年10月からは北九州地区の各小教区(教会)で祈りと分かち合いを通して、ディエゴ加賀山隼人に祈り、学び、愛に倣うことを目指して歩みました。
殉教400年を機会に殉教日に近い日曜日に記念ミサの検討が北九州信徒使徒職協議会でなされています。
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